近世フランスの数学

フランソワ・ヴエイト(1540-1603)

ヴエイトの数学の功績

ヴエイトの\(\dfrac{2}{\pi}\)の無限積

\[\dfrac{2}{\pi}= \sqrt{\dfrac{1}{2}} \cdot \sqrt{\dfrac{1}{2}+\dfrac{1}{2}\sqrt{\dfrac{1}{2}}} \cdot \sqrt{\dfrac{1}{2}+\dfrac{1}{2}\sqrt{\dfrac{1}{2}+\dfrac{1}{2}\sqrt{\dfrac{1}{2}}}} \cdot \cdots \] 巧妙な級数式と\(\pi\)が表れている。

Jでの経過と解説

円関数の加法定理

\[ sin(x+y)=(sin x)(cos y)+(cos x)(sin y)\] \[ cos(x+y)=(cos x)(cos y)-(sinx)(sin y)\]
require 'numeric trig'
   sin +/  rfd 30 45
0.965926
   sin rfd 75
0.965926

2倍角の公式

\[sin 2 \alpha= 2 sin \alpha cos \alpha \] \[ cos 2 \alpha= cos ^{2} \alpha - sin ^{2} \alpha \] \[ tan 2 \alpha = \dfrac{2 tan \alpha}{1- tan^{2} \alpha}\]

バロックとロココの時代

文化史としてのバロック時代は1600頃から大バッハの死(1750)頃を言う。

アカデミーの創設

絶対君主の創設したアカデミーはプロの学者の絶好の住処であった。天文、物理系ならば天文台長、 雑務や制約も多い大学教授はその次か。聖職者で学者というパターンも多い。 イングランドではこのような枠外のコーヒーハウス(市民の学校を兼ねた)がら出てきた者もいる。

デカルト

哲学者デカルトは万物を数で表したいと思っていた。この思いは孫弟子の哲学者 ライプニッツに受け継がれた。

図形と座標の統合

デカルトは図形も数で表そうと考え図形に座標を与え、幾何学と代数を統合した。

パスカル(1623-1662)

中部フランスクレルモン生まれ。 パスカルの三角形のJのスクリプト。
   !/~ i.5
1 1 1 1 1
0 1 2 3 4
0 0 1 3 6
0 0 0 1 4
0 0 0 0 1

ド・メレの問題

パスカルがシュバリエ・ド・メレから相談を受けてフェルマと書簡を交わした問題が確率論の 始まりとされる

フェルマ(1601-)

フェルマーはガスコニュー地方ツールズ市の議会の高級法務官僚で数学は趣味。 一生をツールズで過ごした。

フェルマ数

\[ 2^{2^{x}}+1 \] フェルマはこの形の数が素数であると書簡で主張した。

残念ながらフェルマ素数とはならなかった。

   ferma >:i.6x
5 17 257 65537 4294967297 18446744073709551617 
1  2  3   4       5          6   NB. 
   q: ferma 5x  NB. 
641 6700417

   q: ferma  6x
274177 67280421310721

ferma=: 3 : 0
>: 2^(2^y)
)

多角数定理

どのような数もたかだかn個のn角数の和に表される

n番目の三角数は \[T_{n}=\dfrac{n(n+1)}{2} \]

フランス革命の頃の数学

イングランドはスチュアート朝の国王を斬首、追放と2度放逐したが、同じスチュアート朝 の女王をオランダから迎え、穏健な王制下での改革の道を選んだ(名誉革命)

フランスも革命、王政復古、7月革命と似たパターンをたどったが、国王が国政を 議会側に委ねることなく2月革命で国王が退位して共和制を選んだ。

ラグランジュ(1736-1813)

コーシー

ラプラス

ポアソン

フーリエ